震災のあった日

おはようございます。coroです。

この度の震災により、甚大な被害を受け、被災地で不安な日々を過ごしている多くの皆さま
に心よりお見舞い申し上げます。亡くなられた方々、ご遺族の皆さまには、心より哀悼の意を
表します。
支援が少しずつ届き始めているようですが、支援が届かない地域もあり心がとても痛みます。
何かできることはないか、毎日考えているところです。


私は、ここ10数日の間ほとんど何も手につかず、緊急地震速報に恐々としながら過ごしてき
ました。職場に行っても輪番停電と不安で仕事にならず、自宅で待機する日を続けています。


今になってようやく少し動くことができるようになってきました。
震災が起きた日、何をしていたか記録しておこうと思い、日記を書いておきたいと思います。



大震災が起こった3月11日、coroは広島に出張で出かけておりました。


出張先で、未曾有の大震災が起こったことを聞かされ、すぐに終わらない仕事に焦りながら、
家族がいる遠く関東を思って、つながらない電話を握りしめました。


coroには細かな状況が何一つわからないなか、母から、私や私のダンナさん、きょうだいが
大丈夫か尋ねようとしたらしいタイトルだけのメールが届いており、恐ろしい思いがしました。


仕事先にも関東出身の人が多数いたため、仕事を切り上げて解散することになりました。
出張から帰る日だったので、ホテルに預けた荷物を取りに行くべくcoroは路面電車に乗りました。
その道中、仕事先で出会った人がとても心配してくださり、親切に帰りの交通について色々と調
べてくださいました。


coroひとりが遠くに取り残されたような気がして、とても心細かったのですが、その気遣いが本
当にありがたかったです。


フライトはすべて欠航。新幹線は新大阪までしか出ておらず、どうやら留まるしかないと判断し
た人々が宿泊先を求めて奔走している様子がわかってきました。


とにかく携帯がパニックで不通状態、ツーツーという音やかかりにくくなっているという音声を
聞くたびに、言葉で表現できない不安を感じました。


ダンナさんに何度もかけましたが、つながらず。仕事柄、鋭意対応しているだろうから絶対に無
事だと自分に言い聞かせて、私の実家の家族にも電話を掛けることにしました。


何度も何度もかけ直してまず父と連絡がとれました。無事。
妹からメールが入りました。無事。
母にも連絡しました。大丈夫。
家族の誰もが、弟と連絡がとれず、時間と移動に自由のきくcoroが必死にかけ続けました。
自宅におり、無事。


coroの実家は海から数キロしか離れておらず、大津波警報が出されていることもあり、家族間の
連絡役をして、とにかく高台にある妹のアパートに避難するように伝えました。


ホテルに戻り荷物を持って、行けるところまで新幹線で行こうとしたのですが、宿泊先を確保で
きずに路頭に迷うのなら、広島にとどまる方が賢明と判断して、もう一泊することに決めました。
結局、関東へ帰れる方法が何一つなくなりました。一泊延ばすことにしなければ、とても困って
いたかもしれません。もう少し判断が遅ければ、泊まれなかったと思います。


テレビをつけると、ぞっとするような津波の映像。これが大津波、coroの実家も危険に変わりな
いと思い、再び家族に電話をかけて避難できたかどうかを確認。高台に身を寄せたことがわかり、
少なくともほっとしました。家の損壊はなかったものの、停電、断水となり安全に生活できない
状況になりました。


家には高齢の猫とうさぎを残しており、妹はその子たちを心配して一度家に戻ってしまったそう
です。実家を飲み込むような大津波はこなかったものの、後日、沿岸地域では津波によって家が
流されたり、損壊したりしたと聞き、再び恐ろしい思いがしました。


猫たちのために戻ったために、津波にさらわれたりしていたら…。
氷の柱に背中がはりついたように、悪寒と痛みを感じました。


ともかく、帰りたい。
どんな状況になっているのかわからないけれど、ともかくこんな離れた場所で不自由なくやって
いることがとてもいたたまれなくなりました。
テレビから流れてくる恐ろしい映像と情報。遠くにいても非常に不安感が強くなりました。


この間、ダンナさんに電話をかけても相変わらずつながらず、彼の実家にも連絡がつかないとい
う時間がとても長く続きました。彼と実家には夜になってようやく連絡がつき、無事が確認でき
ました。本当によかった…。ダンナさんや親きょうだいみんな無事。不幸中の幸い。


皆の無事が確認できてから、次の日帰るための交通機関の情報を集めました。
帰る支度もし始めました。
移動中に何があるかわからないので、手荷物にチョコレートと水分を備えておくことにしました。


新幹線はまるで不通、係員さんに尋ねると、安全点検をしておりいつ復旧するかわからないとの
こと。明日も動かない可能性がある、ということがわかりました。
飛行機は…。必死に調べ、朝の1便だけが飛ぶかもしれない、という状況にあることがわかりました。
でも、coroがサイトを見たときは売り切れてしまっていました。


諦めきれず、再度2時間後くらいにチェックすると、おそらく関東へ飛ぶ予定だった方々が、キャン
セルをしたものと思われる座席が多く売り出されていました。
迷わずチケットを取りました。朝一番。空港から離れているし、皆が乗ろうとするならきっと高速
バスは大混雑しているだろう。
次の朝、coroが乗るべきバスを調べ、5時台に出発する必要があることがわかりました。


ダンナさんは家に帰れず、職場にとどまらなければならなくなったのですが、深夜になって帰宅する
ことになりました。帰る道のりで何が起こるかわかりませんでしたので、とても心配でした。


緊急地震速報が頻繁にテレビで流れ、恐ろしくなってテレビをつけたままベッドに入ることにしました。
速報の警告音が鳴る度に、どこで地震がおこりそうなのかをチェックするということをしているうち、
一睡もできないまま朝になりました。


身支度を整えて、少し早めにホテルを出て、バスロータリーに向かいました。
すでに長蛇の列。早めに来てよかった、と思いました。
無事に乗車でき、空港へ。でも空港でもパニック状態は続いていました。
朝からダンナさんの電話では、coroが帰ろうとしていることに対して、危ないから帰ってくるな、そこ
にいろ、そこは安全だから、言うことを聞け、と言われました。


でも、そうは言ってもこの便で飛ばなければ、今日はすべて欠航になる可能性が高い。
今のところは新幹線も無理。
飛ぶしかない。そう思いました。心配されている中、関東へ飛びました。
空港から5時間近くかけて、自宅へ到着。
coroが帰ってくるということで、ダンナさんも実家から自宅へ戻ってきており、無事に再会することが
できました。


それからというもの、自宅では緊急地震速報が聞けるようにして、すぐに逃げ出せるよう緊急避難用の
バッグを用意し、非常用の食料を準備して、非常事態に備えることにしました。
1週間くらいはとても神経質になって、地震が来るたびに避難用バッグを持つようなことをしていました。
今も速報が出ると逃げる準備をしています。



心がとても痛いです。
甚大な影響を受けた被災地の人々はもっと不安で大きな痛みを心に抱えているものと思います。
coroも自分に何ができるか考えているところですが、今は義援金に協力することくらいしかできません。
岩手には親戚がおり、やはり被災しています。連絡はようやくとれましたが、心配な日が続きます。



どうか希望を失わずにいてほしいと願います。